私とポケカの邂逅

大学の休学といった、ネガティブでセンセーショナルなことに言及するのはもうやめることにします。

この記事では、私という人間とポケカとの出会いについて書いていきます。

私は、子どもの頃から、それこそ物心のついた頃からポケモンと共にありました。ポケモンが好きだった、というよりかは、そちらの記述の方が適切なように思います。とにかく、私は、ズイタウンの育て屋さんの柵の中にめり込もうと必死でなぞのばしょを移動したり、ダークライシェイミを捕まえるためまたしてもなぞのばしょで奇妙とも思える座標の調整を行っていたような気がします。

映画についてです。ポケモンの映画は、ラティオスラティアスが登場する映画が好きでした。アルトマーレという美しい水の豊かな古都を舞台に、これまた美しいドラゴンポケモンラティアスラティオスと、それらを取り巻く人間とのドラマが好きでした。

なんだか抽象的でそして当たり障りのない感想文のような印象を受けたかもしれません。それは、私の表現能力の欠如に起因するものと思われます。それに関しては、申し訳なく思います。

ポケモンセンターについてです。現実世界のポケモンセンターは、子どもだった私にとって、大切な遊び場でした。同じくポケモン好きな友人を引き連れて、今はなき浜松町のオフィスビルの中に鎮座するポケモンセンターに、頻繁に遊びにいきました。

その頃はブラックホワイトでハイリンクが流行っていた頃でした。僕が持っていたロムはブラックでしたから、見慣れないホワイトフォレストの光景を見て、友人の持っているロムが羨ましく思えたのでした(隣の芝生はなんとやら)

私は、ポケモンセンターの近くの場所でワイヤレス通信を楽しみました。20人、30人といった賑やかな人だかりがいつもできていたような気がします。老若男女いろいろな人間がポケモンというゲームを楽しんでいるように思えました。私もその一員であると思うと、不思議と誇らしさも覚えました。

ダイヤモンド・パールの地下通路ではミカルゲの獲得に苦心しました。友人に手伝ってもらってようやく成し遂げることができました。しかし今ではその友人とは価値観の相違から疎遠になってしまいました。

私がポケカにはじめて触れたのは、大学の最初の休学期間が明けて、ふたたび受けた授業で単位を落としてしまった、その負のスパイラルの中でのことでした。

その頃はソード・シールドがゲームとして発売されていましたから、私は自然とその拡張パックシールドに手を伸ばしました。なぜシールドなのかというと、自分が持っていたゲームのバージョンがシールドだったからです。

当時は、マリィSRやザマゼンタURといった目玉カードが人気だったのでしょうが、初心者も初心者である私は、レアリティなど気にすることもなくとにかく拡張パックを買い漁りました。

そのお店は、家電量販店だったり、ポケモンセンターだったりしました。アルバイトもする気力もなかった私は、親からもらった大切なお小遣いの大半をポケカに費やしました。

最初に組んだデッキはルカリオメルメタルとザマゼンタを組み合わせたデッキでした。

しかし、私には対戦相手がいませんでした。大学にはポケモンサークルはあるものの、私は会員ではありませんでした。そこで見つけた手立てが、SNSで自分と同じく対戦したい意欲を持った人を探すことでした。案外、それはTwitterを通じてすぐさま実現しました。

私は、何を思ったかみぎかわという名前でポケカを本格的に始めることにしたのです。後になって思えば、みぎかわというのは、私が尊敬する物理学者で、講談社ブルーバックス量子力学を萌え漫画としてアレンジメントした”ひだりかわ先生”(無論ペンネームです)を自分なりにもじったものでした。

はじめて出会ったフォロワーさんのことを書き記すのは、当人に申し訳ない気持ちもあるのですが、九州北部から東京にやってきた社会人の方でした。年齢は20代でした。

その時、私は”池袋のメガトウキョー”と指示された通りの場所へ行きました。東京にあるポケモンセンターは浜松町一択だと勝手に思い込んでいた私はどうやら情報弱者で、がんらいあった浜松町のポケモンセンターは池袋に移転したとのことでした。

なんとそこには、ポケカを楽しむ人専用のスペース(遊戯王風に言えばデュエルスペース)がありました。

私はそこで、先述のザマゼンタのデッキを使って相手と戦ったのですが、炎が弱点ということも知らずその相手の炎デッキにコテンパンに叩きのめされてしまいました。ショックではありましたが、身体中から沸き起こる、カードゲームに対する情熱のようなものが湧いてきました。


以上私が体験したポケカの原風景は、今でも色褪せることなく私の胸中に収納されています。程なくして、私は無節操にTwitter上でポケカ対戦を呼びかけることになります。